はじめに
邦画には、ときどき観終わったあとに妙な疲労感だけを残していく作品があります。スカッともしないし、感動で涙が出るわけでもない。ただ、人間のどうしようもなさだけを延々と見せつけられて、「うわぁ……」という感情だけが残る映画。
そんな作品の代表格のひとつが、入江悠監督の映画『ヴィジランテ』です。
派手なアクション映画ではありません。ヒーローもいません。勧善懲悪なんてものも存在しません。出てくる人間は全員どこか壊れていて、優しさを持ちながらも、その優しさをまともに使うことができない。
観ていてずっと苦しい。
でも、不思議と最後まで目が離せない。
『ヴィジランテ』は、地方都市を舞台にした“兄弟の崩壊”を描いた作品です。
そして同時に、「男らしさ」という呪いに縛られた人間たちの物語でもありました。
今回はそんな『ヴィジランテ』について、ネタバレ込みでじっくりレビューしていきます。
あらすじ|壊れた兄弟たちの再会
物語の中心になるのは、神藤家の三兄弟。
長男・一郎は地元で権力を持つ市議会議員。
次男・二郎は東京で失敗し、地元へ戻ってきた男。
そして三男・三郎は、父親の介護をしながら細々と暮らしている。
名前だけ見ると昔ながらの“普通の兄弟”っぽいんですが、この三人の関係性がもう最悪です。
特に長男・一郎の存在感が圧倒的。
地元の権力者として振る舞い、暴力団とも繋がりがあり、地域再開発を推し進めていく。表向きは成功者ですが、その実態は支配欲と暴力性にまみれた男です。
そんな兄の圧力の中で、弟たちはずっと押し潰されながら生きている。
この映画、最初から最後まで「家族」という存在がずっと重いんですよね。
普通の映画なら“血の繋がり”が最後の救いになったりするんですが、『ヴィジランテ』ではむしろ逆。
血が繋がっているからこそ逃げられない。
しかも誰も悪人として単純化されていない。
一郎はクズなんだけど、地方で生き抜くために怪物にならざるを得なかった感じもある。
二郎も善人ではないし、三郎も決して強い人間じゃない。
全員が中途半端に人間臭い。
だから観ていてリアルに苦しくなります。
とにかく息苦しい|地方社会の閉塞感がリアルすぎる
『ヴィジランテ』を観ていて一番印象に残るのは、地方特有の閉塞感です。
この映画に出てくる街は、ハッキリ言って終わっています。
仕事は少ない。
ヤクザと政治が近い。
昔からの人間関係が支配している。
若者は外へ出ていく。
残った人間は、狭いコミュニティの中で息苦しく生き続けるしかない。
この空気感の描き方がめちゃくちゃ上手い。
たとえば東京が舞台だったら、人間関係を切って逃げることもできるんですよ。
でも地方って、“逃げても結局噂が追いかけてくる”感じがある。
誰が誰の息子で、誰が昔なにをしたか。
そういう情報が永遠に共有され続ける。
『ヴィジランテ』の登場人物たちは、その土地の空気に完全に絡め取られています。
特に印象的なのが、再開発の描写。
一郎は「街を変える」と言いながら、結局は自分の権力を拡大したいだけなんですよね。
でも住民側も、完全に反対できない。
生活が苦しいから。
この“正義が機能しない感じ”がめちゃくちゃリアル。
最近の映画やドラマって、わりと善悪をわかりやすく描くことが多いじゃないですか。
でも『ヴィジランテ』には、スッキリする答えがない。
誰かを倒せば解決する問題じゃない。
構造そのものが腐っている。
だから観ていてずっとしんどいんです。
でも、そのしんどさこそがこの映画の魅力でもある。
大森南朋が怖すぎる|長男・一郎という怪物
この映画を語る上で絶対に外せないのが、大森南朋演じる長男・一郎です。
もう、とにかく怖い。
別にホラー映画みたいな怖さじゃないんですよ。
現実にいそうな怖さ。
地方で顔が利いて、地元の人間を支配して、暴力も使えて、しかも本人は“自分が正しい”と思っているタイプ。
一郎って、実はずっと「家族を守ろう」としてる部分もあるんですよね。
そこがまた厄介。
完全なサイコパスじゃない。
愛情が歪みに歪みまくって怪物化している。
弟たちに対しても、「お前らのためを思ってやってる」という態度を崩さない。
でも、その実態は支配です。
この“善意の暴力”がめちゃくちゃ怖い。
しかも大森南朋の演技が本当に凄い。
怒鳴り散らしているシーンより、静かに話している時の方が怖いんですよ。
なにを考えているかわからない目。
感情を押し殺した声。
「あ、この人いつでも暴力に切り替えられるな」っていう空気が常に漂っている。
一郎は典型的な悪役というより、“地方社会そのもの”みたいな存在なんですよね。
古い価値観、男尊女卑、暴力、支配、権力。
そういうものを全部背負っている。
だから単純に嫌いになれない。
もし一郎が別の環境で育っていたら、違う人生もあったのかもしれない。
そう思わせる瞬間があるから、この映画は単なる胸糞映画で終わらないんです。
「男らしさ」に潰される人間たち
『ヴィジランテ』を観ていて感じたのは、この映画って“男らしさの呪い”を描いている作品なんじゃないか、ということです。
登場人物たちはみんな、「強くなければならない」という価値観に縛られている。
一郎は権力者として強く振る舞う。
二郎は負け犬と思われたくない。
三郎は父親を見捨てられない。
誰も素直に弱さを見せられないんですよ。
だから全部が暴力になる。
怒鳴る。
殴る。
脅す。
支配する。
本当は寂しいだけなのに、それを言葉にできない。
この映画、女性キャラクターたちの視線が結構重要なんですよね。
男たちが勝手に壊れていく様子を、どこか冷めた目で見ている。
「なんでそんな生き方しかできないの?」
たぶん観客も途中から同じ気持ちになります。
でも、彼ら自身もやめ方がわからない。
特に二郎の不器用さがキツい。
彼は兄ほど暴力的ではないし、三郎ほど優しくもない。
中途半端なんです。
でも現実の人間って、たぶんこういう“中途半端な人”が一番多い。
なにかを変えたい。
でも勇気がない。
誰かを守りたい。
でも自分のことで精一杯。
『ヴィジランテ』は、そんな情けない人間たちを徹底的に描いている。
だから観終わったあと、妙に心に残るんですよね。
ヒーロー映画みたいに「頑張れば勝てる」とは絶対に言わない。
現実はもっと泥臭くて、みっともなくて、救いがない。
でも、そのリアルさが刺さる。
観終わったあとに残る“嫌なリアル”|だからこそ忘れられない
正直に言うと、『ヴィジランテ』は人を選ぶ映画です。
テンポがいい娯楽映画ではないし、爽快感もない。
観終わったあとに「面白かったー!」とはなりにくい。
むしろ気持ちは沈みます。
でも、それでも忘れられない。
なぜなら、この映画には“現実の嫌な部分”が異常なほど詰まっているからです。
家族問題。
地方格差。
暴力。
権力。
男社会。
貧困。
閉塞感。
どれも日本社会の中に確実に存在しているものばかり。
しかも『ヴィジランテ』は、それらをわかりやすい社会派ドラマとして描かない。
あくまで“そこに生きている人間たち”を映す。
だから説教臭くならないんですよね。
ただ、人間が壊れていく。
それを静かに見せつけてくる。
個人的には、この映画のラストがかなり好きです。
決して救いがある終わり方じゃない。
でも、「それでも人生は続いていく」という感覚がある。
完全に絶望で終わらない。
かといって希望を押しつけてもこない。
そのバランスが絶妙。
入江悠監督って、人間を突き放しているようで、実はかなり優しい視線を持っている監督だと思うんですよ。
『ヴィジランテ』でも、登場人物たちはボロボロです。
どうしようもない。
でも映画そのものは、彼らを完全には見捨てていない。
だから観終わったあと、不思議な余韻が残る。
「この人たち、これからどうやって生きていくんだろう」
そんなことをずっと考えてしまう映画です。
まとめ|『ヴィジランテ』は“痛み”を真正面から描いた傑作
『ヴィジランテ』は、かなり重たい映画です。
気軽におすすめできるタイプではありません。
でも、人間ドラマとしてはものすごく濃密。
暴力や権力を描きながら、本当に描いているのは“孤独”なんですよね。
誰にも理解されない。
でも誰かに認めてほしい。
登場人物たちはみんな、その矛盾を抱えながら生きている。
だから苦しい。
でもリアル。
近年の邦画の中でも、『ヴィジランテ』はかなり異質な作品だと思います。
エンタメとして消費されることを拒否している感じがある。
観客を楽しませるより、「お前はこの現実から目を逸らせるのか?」と問いかけてくる映画。
万人受けはしないでしょう。
でも刺さる人には深く刺さる。
もし、“綺麗事では終わらない邦画”を観たいなら、『ヴィジランテ』はかなりおすすめです。
観終わったあと、しばらく気分は沈むと思います。
でも、その沈んだ感情ごと、きっと忘れられなくなるはずです。

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